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違っていたら何なんだ

通勤時、ふと前を見ると顔に痣のある人がいた。
鼻を時計の針の中心に例えれば、3時から10時にかけて痣がある。
一部の痣は盛り上がり、はっと思わず見てしまった。

さて僕は痣のある人を「見てしまった」わけだが、
「・・・してしまった」という言い方には
「思いがけず」とか「心ならずも」とか
「ホントはいけないんだけど」とか、
どこかネガティブなニュアンスが含まれている気がする。

僕は痣のある人を見てしまった。

僕は、いけないことをしたのか?
あざのある人を見た経験があまりなく、
それこそ思わず「見てしまった」わけではあるが。

理由もなく意味もなく他人から見られたらいい気はしない。
その意味で、やっぱり痣がある人を「見てしまう」のはよいことではない。

以前僕も左腕を骨折したときに
肩からつるした腕を学ランの下に収めていたら(つまり左袖はブラブラ)、
奇妙な視線を浴びたことがある。
(まずいモノを見た)(見ちゃいけない)(あらあらあら…)
そんな気配をその視線から感じたものだ。

では、痣のある人や左袖がブラブラの人を見てはいけないのか。
不自然に視線をそらされるあの感じは、嫌なものだったのを覚えている。

見ていいのだ。見ないほうが不自然だろう。
ただ、やっぱり「見てしまう」「見てしまった」感覚も否定しきれない。

慣れ、なのか?
慣れていないだけ、ということなのか?

ふと思いついたが、母から今でもたまに言われるくらい、
それこそ生まれてこの方何回聞いたか分からない言葉がある。

「五体満足で生まれてきてくれたんだから、それで十分」。

どうも問題の根っこはここらへんにあるような気がしてきた。

五体満足で生まれてきた。それはそれでけっこうなことだ。
では五体満足でなく生まれてきたらどうなのか。
それでは不十分なのか。その人格は認められないのか。

そんなことはないだろう。
五体満足であるか否かに関わらず人格は尊重されるべきものに違いない。

人としてみんな同じく認められ、尊重されなければいけない。
ただ人それぞれに違いがある。違いは「個性」だ。

各人の人格を尊重し、同時にその個性も尊いものと感じられる感性が大切。
こういう感覚が備わっていれば、
「・・・してしまった」的な感受性はまったく違うものになっているだろう。

「違い」は「違い」ではなく「個性」。

むむむ、深まらない・・・。もう少し考えよう。

by urutimai1970 | 2009-10-22 23:30 | 徒然